ストンリバーの日記

「詰将棋パラダイス」同人作家が語る将棋一般ブログ

詰将棋と詰め将棋

 詰将棋パラダイスの8月号小学校で標記のテーマで次のようなコラムを書いた。
<希にだが、「詰め将棋」と表記したがる人がいる。宗看・看寿の江戸時代の昔より「詰将棋」というのが慣わしですと、ハッタリで説明すると妙に納得顔になる。そこで、詰パラの表紙を出してダメを押すことにしている。しかし、内閣告示の「送り仮名の付け方」などを見ると、どうやらどちらも正しいのが真相ではある。>以上が、その内容である。
 よく、外出した時などに友人とばったり出会ったときに、「最近、将棋打ってるの?」と聞かれる時がある。相手は、将棋が趣味である私に気を使っていることが良くわかるし、お天気の挨拶言葉みたいに聞き流していることが多い。決して、囲碁が打つで、将棋は指すなどと説明をすることはないのである。
 しかし、「詰め将棋」という形でアクセスがあると、状況はいささか違ってくる。それは、相手が将棋という趣味にある程度、関わりを持っている人が多いのである。でも、そういう環境にあるにもかかわらず、詰将棋のなんたるかを知っている人がほとんどいない。「詰将棋」のことを深く質問してくると丁寧に説明をすることにしているが、将棋を打つと云われること以上に、詰め将棋という表現に遭遇すると詰将棋作家にとっては(少なくとも、私は)実に悲しむべき出来事なのである。
 パラの本文に書いた宋看・看寿の作品集は通常、「将棋無双」・「将棋図巧」と呼ばれている。この作品集が出た当時の序文には「詰将棋」という言葉もなければ、「詰め将棋」という言葉も出てこない。代わりに「図式」・「詰物」という表現が頻繁に出てくる。そこでの「詰物」という感覚からして、私は「詰将棋」と表現したいのである。
さらにもう一つ、こだわりを持っていることがある。詰将棋の本などでその問題の解答欄に、例えば・・・同玉、3四角成までの7手詰め。と表記されていることがある。これもなんとなくイヤな感じをもつものだ。本人はダめを押したつもりだろうが、め障りの一言にしか思えないのだ。すっきり、7手詰。と書いてほしい。詰将棋パラダイスでは「7手」と省略表示することはあっても「7手詰め」はあり得ないのである。
 趣味の世界に生きる者はその世界の慣習とともにある種のこだわりを持っているものだ。いや、こだわりというよりもゆるぎない矜持と云うべきものだろう。

本日の詰将棋:7手詰