ストンリバーの日記

「詰将棋パラダイス」同人作家が語る将棋一般ブログ

詰将棋(解く人、観る人、作る人)

 詰パラ9月号小学校の解答の束が編集部より10月9日届いた。解答の中に選題の言葉に対する読後感をお寄せいただいた方が4,5通あったが、なかに否定的な見解を述べられていた方があった。結果稿で説明をしたいが紙数の関係で意を尽くせないのでこのブログで補足説明をしておきたい。

 まず、詰パラ9月号の小学校選題の言葉で次のようなことを書いた。
「創作をしない詰将棋フアンはありえても、解図をしない詰将棋フアンは存在しないのではないか。名作鑑賞という楽しみ方(長編は仕方がないとしても)がありそうだが、詰将棋はある程度、解図を通して実感しなければ、詰将棋に対する真の感動は生まれないのではないかと思うからである。」

 この一文を書いたいきさつは、昨今、将棋界で「観る将棋フアン」ということが一つのブームになったかと思う。これを詰将棋で云うとどういうことになるだろうかという思いで、その感じるところを書いてみたのである。

 「観る将棋フアン」とは、本人は将棋の指し方は知っているのだが、積極的に指し将棋に興じることなく、プロ将棋のタイトル戦などを通じて(それは大盤解説会の時もあるであろうし、ネット中継を観るという形式でも構わないのだが)臨場感あふれるプロ将棋を堪能しようとするのがメインの行動だと云う風に私は理解している。

 標題の詰将棋を「作る人」は詰将棋作家で、その作品を「解く人」がいわゆる解図という行為、そして「観る人」が解図はしないけれども詰将棋の名作・好作の答をみたり、盤に並べて鑑賞することである。一方、指し将棋における「作る人」が一局の将棋を作り上げるプロ棋士のことで、「観る人」が先に説明したとおりであり、詰将棋における「解く人」に当たる人が観る将棋フアンにはない。強いて言えば、自らの頭脳を使って詰将棋の解図をするように、自ら考えて将棋そのものを指すことに当たるかも知れないが、あえてそれを避けている部分があるから、観る将棋フアンは「作る人vs観る人」の構図となってしまう。

 さて、一般論になるかも知れないが、詰将棋は解き上手にならなければ、詰将棋作品を作れるようにはならないものだ。すなわち、解図行為の積み重ねの中で、いろんな詰手筋を覚え、自分ならこういった手順でまとめたいとかへ、思考の回路が回り出したら、作家への道は近いのである。だから、詰将棋は自らが苦しみながらも実際に解けた時の納得感、ああ、良い作品だと思えたときの感動は何ものにも変えがたいものがある。単に、名作といわれるものを鑑賞するだけでは到底味わえないものがある。そこらあたりのことを、解図をしない詰将棋フアン(真の詰将棋フアンという意味に近いかもしれない)は存在しないのではないかという表現になったのである。


本日の詰将棋:7手詰