ストンリバーの日記

「詰将棋パラダイス」同人作家が語る将棋一般ブログ

将棋世界ムック本「羽生善治」

谷川浩司九段に続いて標記のマイナビムック本が最近出版された。

囲碁棋士張栩さんとの巻頭対談を一番興味深く読んだ。

そのなかでも、特に目を引いた詰将棋と詰碁に論じた部分を抜粋する。


羽生:張さんは「詰碁」が得意でよく作られるそうですが、実戦の寄せと関係しますか。


張栩:関係はしています。読みの早さ、正確さは大事ですので。でも若い頃は作るのも
   好きだったんですが、最近は何かだんだんできなくなってきて。不勉強なだけかも
   知れませんが、年齢による変化もあるんでしょうか。将棋はどうですか。


羽生:将棋の場合、詰将棋と実戦はかなりの別物です。詰将棋に類似した形が実戦で
   出るかというと、特に難しい詰将棋は実戦ではまず現れません。そのあたりは、
   詰碁と囲碁の実戦の関係とはちょっと違うのかなという気はしています。
   あとプロ棋士でも詰将棋を作れる人と作れない人がいて、私は全然作れません、
   簡単なのはともかく、谷川先生のように作れる方もいますが、作れない方が
   大多数ではないかなあ。時間と労力も必要ですし、あと構想も。


張栩:いろんな碁の勉強をしてきましたが、若い時は自分が上の方に行けるかも分から
   ないし、勉強をしながら自分の名前が残せたらいいなと思って詰碁を作り始めた
   んです。でもだんだん結果を残していくと、別に詰碁で自分の名を残さなくても
   いいかなと。


さて、注目するのは張栩さんの詰碁を作りはじめた動機が自分の名前が残せたらいいな

という部分である。これはまるで、ある時期指し将棋に見切りをつけて、詰将棋

傾注していく一部、詰将棋作家の姿勢に近いものがある。

私は指し将棋の終盤が強くなりたくて詰将棋を解いていたら、逆にその魅力に取り

つかれてしまった。いわば、ミイラ取りがミイラになるという典型なのである。

世阿弥花伝書の中に「時分の花」という言葉がある。10代は10代の花が咲き、

20代は20代の花が咲くように人は誰でも、時の勢いで咲く花の時期というもの

がある。人によっては県代表という時分の花が咲くかもしれない。

しかし、所詮、アマは後世に残るような棋譜や碁譜を残せるものではない。

そこで、私は「時分の花」ではなく、「まことの花」を詰将棋に追い求めている

のであるが、いまだ二流の詰将棋作家の域を出ないのである。