ストンリバーの日記

「詰将棋パラダイス」同人作家が語る将棋一般ブログ

詰パラ7月号<小学校選題の言葉>補遺

詰パラ7月号で私が担当する小学校の選題の言葉として次のようなことを記述した。
「 詰パラの担当は5年ぐらいが望ましいとの持論を持っている。2,3年では短すぎるし、5年あれば自分が思っていることがほぼ展開できる。それを過ぎるとややもすればマンネリ気味に陥る。30代の頃、ヤン詰を8年半務めた経験から云えることである。次代を育てるのも大事。人生は廻り持ちであるから。今期末を持って私は去る」である。


 今年で丸5年担当したことになるが、担当継続に支障をきたすようなことが生じたわけでもなく、とりわけて家庭の事情等で継続困難になったわけでもない。元気でいる間は続けたい意欲は一方で十分持ち合わせているのだが、下記の理由により勇退することにした。


 詰パラ誌の中長期的視点にたった将来のためには、この担当業務というのはできるだけ若手の書き手(担当)を育てておいた方が良いと常々そう思っている。そのような経験を積むことによって、やがて数十年後には再び詰パラ誌のために活躍してくれることができるのである(ちょうど、私が30代で経験して、再び帰ってきたように)。全国の詰パラ会員の中には担当をやってみたいと思う方は少なからずいるはずである。そういった意欲のある人に手を差し伸べることも大切なことであり、そういった方へ速やかにバトンタッチしたいのである。


 話しを少し昭和40年代に戻そう。当時、詰パラは編集部が名古屋市にあり、ワンマン鶴田諸兄氏が一手にあらゆることをこなされていた。各学校の担当者の決め方も10代、20代の方をよく登用され、特に担当をやらせてくださいと云ってきた若手をまず拒むことはなかった。これはどんなことにも通じると思うのだが、やってみないかと云われるよりは、やらせてくださいと云うほうが物事はうまく行くケースが多いものだ。それは情熱と責任感でもって成し遂げようとするからである。当時私が30代前半で詰パラ会員歴10年未満で且つ詰パラ入選歴も一桁であった頃、ヤン詰の担当をさせてくださいと自ら手を挙げたところ、鶴田氏は実力のほどもよく分からないであったであろう私の申し出に対して、快く応じられて、あなたの好きなようにして良い、増ページにも対応するとまでおっしゃられた。そこでヤン詰を従来より2ページ増やし、おまけに「詰将棋入門」というコーナーを30ヶ月間にわたって連載記事を書いた。今にして思えば、背伸びしたも同然でよく続けられたものだと今では懐かしさだけが残る。


 昭和50年代に詰パラの担当をしていたころは投稿作品の検討に一苦労したものである。一度、不詰作を選題したときは読者の非難を浴びて、自虐的になったりしたこともあった。PCソフトの進歩で楽になった部分があるにせよ、詰パラの担当継続を支えているのは、ひとえに詰将棋に対する愛情そのものである。この思いは現在の詰パラ担当者全員の共通した認識でもあろう。


 現代はインターネットが普及した情報化社会である。詰将棋関連でブログなどで活躍する人も多い。そういった意味では編集部としても詰パラ担当の適任者を客観的に探しやすい環境にある。また、担当を引き受けた人も前述したようにPCソフトの進歩により投稿作品の余詰等で泣かされることは一昔前に比べたら随分楽になったであろう。どうか良き方向へ進んで行ってほしいと切に願う。以上、私の詰パラに対する思い、担当事務の在り方など私の考え方の一端を述べさせていただきました。